I think, therefore I am

思ったことを徒然に綴っていきます。多分、時事ネタ、技術ネタ、自己啓発ネタなど。

平昌五輪でアスリートのアイデンティについて思った

 普段はあまりスポーツ観戦はしないが、平昌オリンピックはかなりの時間を費やした(時差がないこともあったと思うが)。冬のスポーツは野球やサッカーほどにはマスメディアで見られることはなく、普段はあまり目にする機会が少ないが、そうした、普段見る機会の少ないスポーツの一流の技が集い、それをわかりやすい解説とともにTVで(もちろん無料で)観られるというのは、考えるととても貴重なものだったのかなと思う。

 スポーツ観戦にかぎらず、TVドラマなり映画なり、その登場人物に対して自分が感情移入できると鑑賞はより楽しいし、その登場人物に自分が重なるものがあるとなればなおさらだ。とはいってもとんでもない重圧や挫折をはねのけて金メダル獲得するようなスーパーアスリートは凄すぎてとても自分と重なるものが見つからない。自分がこれまで感じた重圧や挫折など、彼らに比べればあまりに小さすぎて共感するのもおこがましい(別に恐縮する必要はないとは思うけれど)。

 

現役ながら裏方に徹する

 

 今回のオリンピックで一番感動を覚えたのは、初の銅メダルを獲得したカーリング女子だ。「もぐもぐタイム」とか「そだねー」とか、競技とは違うところでもいろいろと話題になっていたが、一番共感したのが本橋麻里選手。LS北見の創設者であり、過去3回のオリンピック出場経験をもちながらも、今大会ではリザーブとして完全に裏方に徹していた。

 カーリングは他のスポーツに比べると選手寿命は高いので、31歳の本橋麻里ならまだまだ引退を考える年齢ではないだろう。それでもチームのキャプテンとして、長期的観点でのチームのパフォーマンスを優先し、若手に道を譲って縁の下からチームメイトを支えた苦悩を想像すると、メダル受賞のシーンはもう涙なしでは見られない。是非4年後の北京ではマリリンの選手としての復活も期待したい。

 

年相応のアイデンティティ

 

 そうした目線でみると、4年前はバリバリ活躍したアスリートが続々と解説者やコーチとしてTVに現れていて、立派に次のキャリアを歩んでいるなあとか、逆にあの人は今どうしてるんだろうとか、第一線を退いた選手にもその後の苦労を想像してしまう。誰でも年を重ねていけば、年齢相応のものの見方や、周囲から期待される違った役割がでてくる。

 カズオ・イシグロは過去のインタビュー記事で、『本物の作家になるということは「自分の声」を見つけることだ』といっている。ここで「声」とは書くものにその人にしかないもの、他人と間違えられないようなものであり、要は作家のアイデンティティのようなものだ。そしてカズオ・イシグロその「声」は作家の人生のどの時点でも常に探し続けていなければならない、といっている。「日の名残り」のときの30代の自分と、今の自分とはもはや同じ「声」で語ることはできない。作家は何年も前には正しかった「声」に固執してはならず、常に「声」をアップデートさせていかなれればならないのだ、と。

 アーチストでは井上陽水玉置浩二とかは、若い頃の声の張りはなくとも、今でもすごく味わい深い、沁みるボーカルだし、芸能人でもタモリとか年齢に相応した目線で、70歳を超えても未だにTVで高視聴率だ。ゆるやかに巧みにアイデンティティをアップデートしているんだろうなあ、つくづくこうした年の重ね方をしたいと憧れずにはいられない。

 一方でアイデンティティが一番ドラスティックに変化せざるを得ないのが、スポーツ選手だろう。現役の頃はアイデンティティ=競技能力であった時点から、現役引退後には次の自分探し(≒職探し)が必要になる。

 スポーツ観戦の目線としては邪道かもしれないけれども、トップアスリートとしての輝かしい瞬間だけでなく、その引き際のドラマや、その後の歩み、といったところでもスポーツ選手からは勇気づけられると思う。