I think, therefore I am

思ったことを徒然に綴っていきます。多分、時事ネタ、技術ネタ、自己啓発ネタなど。

裁量労働制と働き方改革について思った

長時間労働ってそんなに悪なんだろうか?

働き方改革の法案で裁量労働制の対象拡大が見送られることとなった。与野党とも、働くということを労働時間の尺度でしか議論できず、官僚も「裁量労働で労働時間が減る」ような無理やりなデータをこしらえざるを得なかったんだろう。まったくお粗末な議論だった。

 かくいう私は研究職として長らく裁量労働勤務であるのだが、逆に昨今の労働時間云々での裁量労働制の議論にあまり実感がもてない。もちろん健康を害するような過度な残業時間の規制は必要だろう。でも、正直、そんなに長時間労働が悪なのだろうか?と思ってしまう。私も多忙なときは、月60時間は軽く超えてしまいそうなときもあるけれども(多分)健康上は問題ないし、特に制度に不満もない。たぶん周りの同僚も似た感じだ。無理やり残業規制したり、年20日の年休行使を強制する会社に対してむしろ、冷ややかですらある。

 どんな仕事にだって繁忙期と閑散期はある。プログラミングが調子よかったりしてついつい深夜まわってたとか、明日の締め切りでどうしても夜遅くまでかけて報告書仕上げなければならないとか。

 

仕事に価値が見いだせれば、長時間労働も幸福度は下がらない

 スタンフォードにいた同僚の話だが、論文の締め切りが迫ると2~3日は平気で研究室に泊まり込んで、終夜問わずデータの解析や執筆に打ち込んだりしているという。日本人の勝手な偏見だと、欧米人は働き方もスマートで、夕方過ぎると教授も学生も帰宅するようなイメージだが、締め切り直前になると、日本よりも凄まじいらしい。

 多くの人にとっては、仕事が長時間化しても、その仕事に自分が価値を見出すのであれば、幸福度は下がらないと思う。むしろ仕事しながら自己啓発してるといった感じだろう。今、IT分野では、AI技術者とかデータサイエンティストとかの職種は人材の取り合いだ。こうした業種の人たちを引き付けるのは、労働時間云々とかよりも、自分の市場価値を高めるような仕事に没頭できるかどうかだろう。このままその会社にいると自分の市場価値が下がってしまう、と考えると技術者はすぐ辞める。

 

労働市場流動性が、裁量労働の悪用を減らす

 とはいっても、労働時間管理を必要とするような従来的な工業生産モデルの仕事も多い。新興のIT系企業だって、プロジェクトの進捗が一度遅れ始めると残業が常態化し、納期が近づくと凄惨さを極めるところも多い。そういったところは裁量労働制が仇となってエンドレスに労働者を疲弊させてしまいかねず、裁量労働制の対象拡大に慎重になる意見もわからなくはない。

 結局、世の中のビジネス形態は多様であり、裁量労働制により生産性が拡大する業種もあれば、従業員を疲弊させるだけの業種もある。
 でも、今後は労働人口が減少していく売り手市場で、労働市場流動性は高まっていく。裁量労働制を悪用したり、経営者が人件費削減の手段としてしかみていないような会社はブラック認定されて淘汰されていくだろう。そうであれば、そういった自然淘汰を信じてもっと企業側に労働時間管理の柔軟性を持たせた方がいいのかなと思う。むしろ、国に対しては、こうした自然淘汰を促し、ブラック企業を徹底的に懲らしめる制度を充実させてほしい。

 

働き方改革=いかに労働市場価値を高めていくか

 将来は、労働時間の尺度とは異なる、アイデアイノベーション勝負のビジネスに移行できた会社がより優秀な人材を集め、強くなっていく時代になるのは間違いない。そうした時代に向け、労働者には、いかに自分の市場価値を高めるか、という意識改革が必要だろう。

 仕事している時間が自分の市場価値を高めてくれるような恵まれた会社であれば、長時間労働も悪くないだろう。そうでなければ、仕事は早めに切り上げて自分の時間を確保し、市場価値を高めるための自己啓発に取り組むべきだ。

 それが、今、私が考える働き方改革である。

平昌五輪でアスリートのアイデンティについて思った

 普段はあまりスポーツ観戦はしないが、平昌オリンピックはかなりの時間を費やした(時差がないこともあったと思うが)。冬のスポーツは野球やサッカーほどにはマスメディアで見られることはなく、普段はあまり目にする機会が少ないが、そうした、普段見る機会の少ないスポーツの一流の技が集い、それをわかりやすい解説とともにTVで(もちろん無料で)観られるというのは、考えるととても貴重なものだったのかなと思う。

 スポーツ観戦にかぎらず、TVドラマなり映画なり、その登場人物に対して自分が感情移入できると鑑賞はより楽しいし、その登場人物に自分が重なるものがあるとなればなおさらだ。とはいってもとんでもない重圧や挫折をはねのけて金メダル獲得するようなスーパーアスリートは凄すぎてとても自分と重なるものが見つからない。自分がこれまで感じた重圧や挫折など、彼らに比べればあまりに小さすぎて共感するのもおこがましい(別に恐縮する必要はないとは思うけれど)。

 

現役ながら裏方に徹する

 

 今回のオリンピックで一番感動を覚えたのは、初の銅メダルを獲得したカーリング女子だ。「もぐもぐタイム」とか「そだねー」とか、競技とは違うところでもいろいろと話題になっていたが、一番共感したのが本橋麻里選手。LS北見の創設者であり、過去3回のオリンピック出場経験をもちながらも、今大会ではリザーブとして完全に裏方に徹していた。

 カーリングは他のスポーツに比べると選手寿命は高いので、31歳の本橋麻里ならまだまだ引退を考える年齢ではないだろう。それでもチームのキャプテンとして、長期的観点でのチームのパフォーマンスを優先し、若手に道を譲って縁の下からチームメイトを支えた苦悩を想像すると、メダル受賞のシーンはもう涙なしでは見られない。是非4年後の北京ではマリリンの選手としての復活も期待したい。

 

年相応のアイデンティティ

 

 そうした目線でみると、4年前はバリバリ活躍したアスリートが続々と解説者やコーチとしてTVに現れていて、立派に次のキャリアを歩んでいるなあとか、逆にあの人は今どうしてるんだろうとか、第一線を退いた選手にもその後の苦労を想像してしまう。誰でも年を重ねていけば、年齢相応のものの見方や、周囲から期待される違った役割がでてくる。

 カズオ・イシグロは過去のインタビュー記事で、『本物の作家になるということは「自分の声」を見つけることだ』といっている。ここで「声」とは書くものにその人にしかないもの、他人と間違えられないようなものであり、要は作家のアイデンティティのようなものだ。そしてカズオ・イシグロその「声」は作家の人生のどの時点でも常に探し続けていなければならない、といっている。「日の名残り」のときの30代の自分と、今の自分とはもはや同じ「声」で語ることはできない。作家は何年も前には正しかった「声」に固執してはならず、常に「声」をアップデートさせていかなれればならないのだ、と。

 アーチストでは井上陽水玉置浩二とかは、若い頃の声の張りはなくとも、今でもすごく味わい深い、沁みるボーカルだし、芸能人でもタモリとか年齢に相応した目線で、70歳を超えても未だにTVで高視聴率だ。ゆるやかに巧みにアイデンティティをアップデートしているんだろうなあ、つくづくこうした年の重ね方をしたいと憧れずにはいられない。

 一方でアイデンティティが一番ドラスティックに変化せざるを得ないのが、スポーツ選手だろう。現役の頃はアイデンティティ=競技能力であった時点から、現役引退後には次の自分探し(≒職探し)が必要になる。

 スポーツ観戦の目線としては邪道かもしれないけれども、トップアスリートとしての輝かしい瞬間だけでなく、その引き際のドラマや、その後の歩み、といったところでもスポーツ選手からは勇気づけられると思う。

 

 

よくわからないAIとどうつきあうかについて思った

 AIのブームがすごい。自動車や医療、インフラ、金融、機械、材料、化学、、、ありとあらゆる産業が何らかの形でAIに関連している。これだけ広い分野に影響を及ぼす技術革新はないのではないか。

 今のところブームは過熱する一方だが、AIを実業務に適用する上での課題も見えてきており、期待感の一方向だったAIブームもやがては現実的な落としどころに収束していくだろう。

「AIは結果に至ったプロセスがわからない」

 これはすでに多くの指摘がなされているが、AIの課題として最大のものだろう。結果が良好であっても、なぜそのような結果が得られるか、もはや人間にとっては理解が難しいのである。世の中、結果だけがすべてではなく、そのプロセスが重視されることの方が圧倒的に多い。


 医者が、画像診断結果にAIを活用したとして、「(よくわからないけども)AIが異常と診断した」という理由だけで診断くだすことはないだろう。診断結果に責任を負うのは医者である。

 

 今のAIの発展の根幹を成しているのは2010年頃からの「ディープラーニング」のブレークスルーだ。ディープラーニングは、ニューラルネットワークと呼ばれる、人間の脳細胞の神経伝達系を模したネットワークをベースとしている。ニューロンと呼ばれる単純計算を行うユニットを層状に並べ、ユニット間の重みづけ結合でネットワークを構成する。このユニット間の重みづけ係数を求める計算が学習そのものであり、なぜこのような重みが得られたか、というのはもはや人間が説明することはできない。

 

 ニューラルネットワークのブームは過去にもあった。私もかつて当時の業務だった画像処理の性能改善のためにニューラルネットワークを活用したことがある。しかし、最初につくってある程度の性能がでたとしても、その後の性能改善が難しくて断念した。要はなぜそのような結果が得られたかを説明できないのだから、当然、どう改善してよいかもわからないのである。工夫といえば、学習の邪魔になりそうなデータをスクリーニングしたり、特徴量を変えてみたり、といったぐらいしかなかった(今もそれは基本)。当時はニューラルネットワークそのものも性能が低くかったため、あっという間にブームは去った。実用化されることがなかったのだから、そのネットワークの中身がわからないこと自体が問題になることもなかった。

 

 しかし、ディープラーニングの登場によって、この状況が大きく変わってきた。ニューラルネットワークをベースとしつつも、初期値の設定や重みの更新の仕方を工夫することで、ニューラルネットワークの多層化が可能となり、従来の機械学習技術よりも性能が飛躍的に向上したことで、ブームの火付け役となった。その一方で、学習データのプロセスがわからないというニューラルネットワークからの課題が顕在化した。ディープラーニングニューラルネットワークをベースに学習方法やモデルを工夫したものであるが、なぜそうした工夫によって性能が向上したかの理論的根拠は筆者が知る限り未だに存在しない。

  いわば、ディープラーニングの技術進展は、「こうしてみたら性能がいきましたよ(何故かはわからないけど)」というノウハウの蓄積に過ぎない。

  まさに黒魔法と揶揄される所以である。

 

「よくわからないけど便利な技術とどう向き合うか」

 よくわからないけども、便利だから使ってみる。思えば人類は先史以来、そうやって進化してきたのかもしれない。人間は火をおこし、道具を作ることでサルから進化してきた。当時の原人が、火はなぜ燃えるのか、こんな形状の石器でなぜ肉がよく切れるか、なんて考えたりしなかっただろう。
 今の時代も同様である。今日、世の中には便利な装置や機械であふれているけれども、それを使う人がその原理をどこまで理解しているだろうか。

 医者がX線CTやMRIなどの最先端の診断装置を診断に活用したとして、その計測原理まで深く理解しているとは思えない。詳しくはわからないけれども、便利だから使っているのである。

 AIはよくわからない。でもよくわからない技術だって便利なら使われるはずである。ではよくわからないAIが使われるためには、何が必要なのだろうか。個人的には以下の二つが重要と思う。

 

(1)人間がわかりやすい形で結果が示される
MRIやX線CTは、画像という人間が理解しやすい形で結果を示してくれる。計測原理まで理解せずとも、「なにかが詰まっててこの部分が白くなっている」といった直感がはたらき、診断支援の道具として利用されている。画像診断でのAI活用でも、なぜAIが異常と判断したか、その根拠が何かしらわかりやすい形で可視化されることが重要だろう。

(2)人間がリスクを管理できる
AIの活用がどんな分野であれ、最終的な責任を負うのは人間である。AIが予期せず暴走して人間に危害を被るようなことは絶対に避けなければならない。AIがどんな結果を出したとしても、そのリスクを管理できることがAI活用の大前提であろう。自動運転でのAI活用の鍵となるのはまさにここであろう。AIの過信によって重大事故につながるようなことがあってはならないのである。

 

 AIに関わる一技術者として、AIが、その弱点が認識されしつつ、試行錯誤が繰り返され、使えるところと使ってはいけないところが見極められながら、AIが世の中に大きく貢献していくような将来を信じたい。

ブログ始めます

ブログ始めます。

 

2018年正月に誓いを立てて早や一か月。最初のエントリでは、決意表明というほどではありませんが、初心を書き留めようと思います。

 

最近、「自分は何をしたいのか」とか「自分とは何なのか」とか考える機会が増えてきました。自分は自分をどう考えているのか、他人から見て自分はどんな人間なのか、いくら考えてもわかりません。そもそも答えすらあるのだろうか。

 

職業やスキル、肩書といった情報は、もちろんその人を表現するものの一部ではあるでしょうが、人格とか自己とは違う。

 

深く考えると切りがないですが、結局、「自分が何を考えてどう行動し」「他人にどういう影響を与えたか」の積み重ねで形成されるのかなと思います。システム的に捉えれば、その人が外部からの入力に対して何を出力したか。

 

ブログに何かを綴る行為というのは、自分はおかれた状況に対してどう考えてどう行動するのか、それが周囲にどうみえるか、そういったことを積み重ねて、自己を形成していくことにつながるのかな、と思うようになりました。自分自身を客観視するツールとして、ブログを活用していきたいと思います。

 

ブログのタイトルには、そんな想いから「I think, therefore I am」(我思う、故に我あり)とつけました。

 

自己形成とか言ってますが、ブログを書くメリットといえば、「思考を整理できる」「文章力磨ける」「アンテナが広がる」「他人と繋がる」など様々あると思います。文章書くのはどちらかというと苦手な方でして、あまり気負いせず、メリットを享受しながら、日頃の思ったことを自分なりに継続できるペースで綴っていきたいと思います。