I think, therefore I am

思ったことを徒然に綴っていきます。多分、時事ネタ、技術ネタ、自己啓発ネタなど。

資格に合格して効率と非効率について思った

資格の勉強はつらかった

 私ごとであるが今月、技術士二次試験に無事合格した。ようやく2年間の勉強が実った形だ。公的証明書やら会社の公印やら登録申請のための書類集めに未だ終わっていないが、4月頃には晴れて技術士として名乗れるだろう。

 正直、勉強はつらかった。なにがつらいかというと、資格のための勉強というのが直接的に業務に役立つものではなく、モチベーションの維持がつらかった(つまりやる気が起きなかった)。勉強し始めのころは、これまで関わりない分野の知識や技術者倫理など、技術者としての見識を深める勉強に熱意をもってのぞんだのだが、その量の膨大さと勉強時間の少なさを認識しはじめると、途中からは、「いかに効率よく合格するか」という方向にどうしてもなってしまう。こうなると勉強は苦行となる。

  それでも資格取得という目的に対してそれなりに効率よくストレートで到達できたことはうれしい。

 で、思ったのはそもそも「勉強と効率」って両立するのだろうか?

 

勉強と効率

 ここで思っているのは「勉強と効率」であり「勉強の効率」ではない。後者であれば「短い時間でいかに高い学習効果を上げるか」ということであり、最近は脳科学的観点から、質のよい睡眠をとることで翌日に頭をすっきりさせて勉強にのぞむとか、朝時間を活用するとかいろいろあるだろう。通勤中にタブレットで参考書を読んだり、英語ヒアリングしたりといった隙間時間を活用することも、一日という時間を効率よく活用する術といえよう。

 しかし前者として考えた場合、勉強すること自体が効率とは矛盾するものである。英語のライティング力を鍛えるためには、翻訳ソフトに安易に頼るべきではないだろう。しかし効率を優先し、業務上とにかく速くそれなりの質の英文を仕上げるには、翻訳ソフトを使った方が断然効率では有利だ。いかに効率良く仕上げるかが目的であれば、勉強する以外にも多くの手段があるはずである。

 

勉強と業務があいまい

 勉強は勉強、業務は業務と、くっきり切り分けられていれば特に思うところはない。しかし社会人になるとこれらの切り分けがあいまいになりやすい。つまり業務が個人のスキルアップや勉強も兼ねていることが多い。

 先ほどの英語ライティングでいうと、私は業務上英文書く時もこれを修行の機会と考え、翻訳ソフトは全く使わない。でも効率だけ考えれば絶対に翻訳ソフト使った方が多分速いと思う。最近の翻訳ソフトの性能の向上は目を見張るものがある。

 

 研究開発の現場は特にそうだ。研究開発職では、新たな分野や技術に対する継続的な自己研さんが常に要求される。私の関連分野でも、例えばAIプログラミングは、Python系ライブラリやMatlabなどのプラットフォームが非常に充実していて、今更DeepLearningの誤差逆伝播やらSGDやらを実装するのは非効率この上ない(実は私、仕事でGPU使って実装してたけどそれらを今は全く使うことない。。。)。

  でも勉強という意味では、DeepLearningを深く理解するには実際に実装してみるのが一番だ。DeepLearningに関わらず、こうした指摘は昔からある。私が学生だったころは、「Matlab病」なる言葉もあり、要は信号処理の基本部分はMatlabに頼るな、きっちり理解するために自分で実装しろ、とか言われたものだ。しかし今では自分の研究のためにFFTやら行列演算をスクラッチで実装する研究者などいないだろう。それだけで貴重な研究時間を無駄にしてしまい、とても研究成果に結びつかない。

 

研究開発の効率性

 昨今、研究成果にもスピードUPが要求されてきており、「オープンイノベーション」という言葉を最近よく耳にするように、すべてを自社開発するような時代ではない。自社に欠けている部分を、外部の技術やアイディアを活用して補うことで効率よく価値を生み出すという思想だ。

 しかし、自社に欠けているものをオープンイノベーションによって自社内に育成することは容易ではない。協業先にとっては自社の技術流出になるため、どこまでを技術供与するかについては当然、慎重になるからだ。個人レベルに置き換えると、自分で一から勉強するのではなく、他人と分担してやってしまおうという形に近い。そして他人の担当部分を、自分は全く理解できないのである。

 

非効率を産むために効率がある

 組織にせよ個人にせよ、今の社会では効率が優先されすぎて、非効率な作業を行う時間が減ってしまっているように思えてならない。本来、非効率な時間にこそ、個人の人生や、企業活動にとっての重要なものがあり、そうした非効率な作業の時間を産み出すために作業を効率化するのではないだろうか。

 個人レベルでいえば仕事を効率よく終わらせて定時で帰宅し、自己啓発や趣味や娯楽の充実した非効率的時間を増やすというのがわかり易い例だろう。研究開発でいえば、応用研究で回収した資金を、目先に成果は出にくい基礎研究へ投資するというのがそれに近いだろうか(ちょっと無理やりかも)。いずれにせよ、

 非効率をなくすのではなく、非効率を作るために効率があるのだと思う。