I think, therefore I am

思ったことを徒然に綴っていきます。多分、時事ネタ、技術ネタ、自己啓発ネタなど。

セクハラ騒動から、最近の子供に対する暴言を思った。

最近、娘への暴言が増えた

最近、娘に対する叱りが少し度を越してきてしまい、反省する機会が多い。たいていは勉強をみてやるときなのだが、「何回同じミスしてるんだ」「どうして学習しないんだ」「なんで数字変えただけで同じ問題ができないんだ」とか、子供のやる気を削ぐような言葉を、つい子供にぶつけてしまい、泣かせてしまい、自己嫌悪という繰り返しが多くなった。

 

同じ勉強をみるときでも、自分が学習塾の先生の立場で赤の他人を教えるのであれば、あくまでビジネスとして、どんなに物覚えがの悪い子供でも暴言吐くことはないように思うのだが、どうにも自分の子供に対しては、リミッタが働かない。反省しきりである。これが会社で部下に対する指導だとしたら完全にアウトだ。

 

明らかに家庭内ハラスメント

先週はセクハラ問題で財務省事務次官が辞職し、一応この騒動にはけりがついた格好となった。しかしあの騒動は、当人の品性だけでなく、ネタが欲しいマスコミと取材を受ける側の官僚という、セクハラが起こりやすい構造的な問題もあるようであり、根が深そうな問題だ。

 

こうした構造的にハラスメントが生じやすいところは身近にたくさんある。一方の立場が強くて他方が弱いこという人間関係。会社でいえば、上司と部下、会社と顧客、派遣先と派遣元など。そして家庭であれば親と子、夫と妻など。

 

家庭においては、「ハラスメント」というより「虐待」とか「家庭内暴力」とかいう言葉の方が使われるが、行為の対象が身内かそうでないかの違いだけで、強い立場や力を駆使して弱者に対して身体的、肉体的苦痛を与えるという行為の意味は同じだ。

 

自分はセクハラはないと思っていたが、まさに最近の、自分の家庭での親の子供に対する注意の仕方は完全に傍からみればハラスメントそのものだ。じわじわと娘の自尊心を傷つけてしまっていて、人格形成に影響を及ぼしてしまいかねず、つまりは精神的虐待にもつながりかねない。

 

特に家庭はプライバシーという名で保護された閉鎖的な場である。家庭内の不都合な事情が、他人の目には触れにくい。子供は親の暴言に対して外に訴える術を持たない。セクハラを訴えることができない、立場の弱い女性たちと同じだ。

 

プライベートでは、ハラスメントは身近な問題

メディアでの政治家や有名人のセクハラやパワハラ騒動は、(自分も含め)多くの人にとっては他人事だ。しかしプライベートの人間関係にも目を向けると、そこでは「ハラスメント」という言葉があまり使われていないだけであって、「ハラスメント」は誰にでも身近な問題だと、今回のセクハラ騒動で、恥ずかしながら改めて気づかされた。

 

娘よ。本当にごめん。

レスリング協会のパワハラ問題に、現代社会の老害を思った

 

レスリングもか。。。

 今週、日本レスリング協会が、栄和人強化本部長の、伊調馨選手に対するパワーハラスメントを認めて謝罪会見を行った。

www.youtube.com

(https://www.youtube.com/watch?v=C6GUwRpafV4)

 

 先週、相撲の協会の閉鎖性について思ったこと書いたのだが、(http://ykym100run.hatenablog.com/entry/2018/04/09/013532)

 この日本レスリング協会も相当に閉鎖的な体質のようだ。栄氏個人の辞任だけで幕引きしてしまおうという魂胆が見え見えで、協会そのものの体質や監督体制の改善については何も示していない。あの高飛車会見で恥さらした至学館大学長の谷岡副会長は出てこないし、会見での発言に対する謝罪もない。相撲同様、その常識とかけ離れた感覚に心底あきれる。

 

指導者が絶対的存在になってはいけない

 女子レスリングは圧倒的に日本が強い。五輪四連覇、三連覇など他の競技ではありえない。女子の競技人口が世界でも少ないという事情もあるようだが、日本の女子選手は小さい頃から積み重ねる練習量が世界と比較しても圧倒的に違うようだ。

 そしてこの栄氏、自腹で寮を建てて女子選手たちを住ませてプライベートまで徹底的に管理することを指導哲学としていたらしい。まさに相撲の徒弟制度のようだ。その情熱には敬服する。

 実際、この指導が実を結び、伊調馨吉田沙保里などの最強メダリストを多数輩出し、女子レスリングの黄金時代を築き上げたのは間違いない。しかしこの突出した実績が、栄氏のレスリング界での立ち位置を絶対的なものにし、今回発覚したパワハラにつながってしまった。

 吉田沙保里伊調馨が、その圧倒的な実績で絶対王者と崇められるのはいいが、指導者が絶対的存在になってはいけない。アスリートは自ら考えて環境を変えていかなければならない(当然、スポーツに限ったことではないと思う)。


 今回のパワハラ行為の発端になったのは伊調選手が栄氏のもとを離れて練習拠点を東京に移したことだという。選手が現状を打破するため自ら考えて拠点を変え、コーチを変え、練習方法を変えた。これが栄氏にとっては自身を否定された恰好となりパワハラ行為が始まったらしい。しかし伊調選手は陰湿なパワハラに屈せず、リオ五輪で史上初の四連覇を果たし、国民栄誉賞まで授与された。これが栄氏にとってはますます面目を潰された形となった。コーチが圧力かけられ、練習も出入り禁止となり東京五輪に向けた本格的な練習もできず、JOCの強化指定選手からも外され、現在の伊調選手は五輪出場も危うい状況らしい。もう日本国民にとっての甚大な損失だ。関係者は猛省してほしいし、こんな行為を長年放置してきた協会は役員総辞任して体制を改めるべきだ。

まさに老害

 それにしても日本人は、強い成功体験をしてしまうと、それに固執して閉鎖的になってしまう国民性みたいなものがあるのだろうか。老人を敬うという儒教的な文化が関係するのだろうか。財界でも高齢の経営者がなかなか権力を手放さないのが、日本の特徴らしい。

 今回のパワハラ騒動は、まさに現代社会における老害だ。閉鎖的なコミュニティでは、老人は、長年で培った知識や経験を後続世代に継承することで、その老人の存在価値がある。今回でいえば、栄氏の卓越した指導力がそれだ。

 しかし現代社会はグローバル化が進み、知識や経験は書籍やインターネットで広く共有され、所属するコミュニティ内で長老から伝承されるようなものではない。若者が自ら知識を吸収し、考えて知的価値を生産していく時代だ。

 レスリング界は、その閉鎖的な体質をなくし、栄氏の成功経験に縛られることなく、選手たちが自ら考えて成長していくことをサポートできるような組織になっていってほしい。2年後の伊調選手の五連覇を是非見たいものだ。

救命女性に「土俵を下りて」をみて、相撲の徒弟制度について思った

相撲にかかわる人たちの常識を疑ってしまう 

 

4月4日に京都で開かれた大相撲巡業中に、救命措置をした女性に土俵からおりるよう警告があった件、海外でも波紋が広がっているようだ。

 すぐに相撲協会理事長から「不適切な対応だった」という謝罪のコメントは出されたが、こんな警告を発した自体、相撲にかかわる人たちの常識を疑ってしまう。長い慣習で女性が土俵に上がることが禁じられているとはいえ、あの場で救命措置を行う女性を排除するべきなのか、常識的な判断すらできなかったのである。最近の親方たちの騒動も、どうも一般常識と少しずれた感覚がある。

  

相撲は人格の鍛錬に相応しい制度になっているのか?

 スポーツは健全な精神を育成するというが、相撲は肉体の鍛錬はともかく、人格の鍛錬に相応しい仕組みになっているのだろうか。

 相撲力士になるためには相撲部屋に弟子入りし、その後はひたすら日々厳しい稽古に励むこととなる。力士に学歴は必要なく、最近こそ学生相撲出身も多いらしいが、今、理事長とかの要職にある大力士は中卒が大半だろう。こうした常識外れと学歴とを直ちに結びつけるつもりはないが、少なくとも長いこと閉鎖的な環境に置かれてしまうことは、健全な人格育成という観点からは逆光するのではないかと思えてくる。

 

 人間は社会的動物である。長い間一つの集団に属し、外の情報に接する機会が減ると、その集団の価値観や常識にどうしても染まってしまいがちだ。世間の一般常識や広い見識からかけ離れてしまいやすい。ましてや義務教育を終えてすぐに相撲部屋となると、ますますガラパゴス化しやすいと思う。

 最近はスポーツの低年齢化が進み、中学生でも日本トップレベル、世界レベルに到達している競技もある。だが多くのスポーツは、国内だけでなく世界が最高峰の舞台となる。当然、日本独特な変な慣習や常識は存在し得ない。相撲と同じく日本発祥の格闘技である柔道も、いまや国際競技だ。しかし相撲は依然、Sumoとはなっていない。

 

スポーツで徒弟制度は相応しいのだろうか

 スポーツではないが将棋や落語なども、相撲と似た徒弟制度的な文化があり、日本固有の技芸という点で共通である。しかし相撲や将棋は日本人にしかできないものではない(さすがに落語は外国人にはハードル高いと思うが)。相撲は、もはや横綱はほとんどが外国人力士であり、今年の初場所ではジョージア出身の栃ノ心が優勝した。

 相撲がもはや日本人だけで行われる競技ではない状況で、今の相撲部屋のような徒弟制度はふさわしいのだろうか。相撲を競技としての技能水準を高めたいのであれば、日本的な慣習を止め、もっと広く門戸を開放した方がよいと思う。世界中から身体能力の高い力士の卵があつまって、レベルは高まるだろう。ただ、そのとき日本人がトップレベルにはもはやいない気がするし、それはそれで日本文化という観点からは残念な気もする

 そう考えると、相撲は他のスポーツと比べ、日本の文化継承という側面が強いように思う。なんでもかんでも国際化がいいわけではないのかもしれない。だが、だとすればなおさら、相撲は日本固有の文化であるという自覚をもち、その財産に胡坐をかかず、相撲という日本文化を健全なものとして世界に発信してほしい

自動運転の事故の賠償責任について思った

 

自動運転の事故は所有者に賠償責任?

 平成30年3月31日付の日経新聞朝刊で、「自動運転の事故、所有者に賠償責任 政府方針、ハッキング被害は救済」という記事が掲載されていた。インパクトあったので、元ネタを追ってみた。


同記事では『30日の未来投資会議で「自動運転にかかわる制度整備大綱」を示した。』とあり、この未来投資会議というものの情報は官邸サイトの以下リンクにあった。

www.kantei.go.jp

 

がこれだけ読んでも、どこに「所有者に賠償責任を課す」議論があったのか、よくわからない。このサイトのなかでの首相の発言に

『本日、自動運転の事業化を可能とするため安全基準や交通ルールなど制度整備の方向性を示す大綱を松山大臣に取りまとめていただきました。』

とある。それらしき資料は以下のリンクにある。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai14/siryou7.pdf

 その中に「自動運転に係る制度整備大綱(概要)」というスライドがあり、その中に、今後の取り組み事項の一つとして以下の記載があった。

■責任関係
⑦万一の事故の際にも迅速な被害者救済を実現
⑧関係主体に期待される役割や義務を明確化し、刑事責任を検討
⑨走行記録装置の義務化の検討

 しかしこの記述からどう解釈すれば「所有者に賠償責任を課す」になるのかわからない。で、調べてみると、自動運転の賠償責任に関しては、国土交通省の傘下の「自動運転における損害賠償責任に関する研究会」というところで議論されているらしい。この研究会の報告書は以下にあった。

http://www.mlit.go.jp/common/001226452.pdf

 日経新聞の記事の内容に近いことが、この報告書に書かれている。どうも「所有者に賠償責任を課す」という方針の出元はこの報告書のように思うのだが、この報告書で示す方針が、そのまま政府方針として採用されたという事実までは追うことができなかった。

 なのでこの日経新聞の記事を、あたかも政府で方針決定したかのように受け止めてよいのかどうか結局よくわからない。だが自動運転であっても、従来の自賠責保険の考え方が適用され、運行供用者責任(=所有者)が維持されるという方向には進みそうだ。

 

ハッキングによる事故≒盗難車による事故?

 この報告書で興味深いのは、ハッキング等によって、所有者とは全く無関係な第三者が所有者に無断で車を運転するような事態において事故が起きた場合、盗難車による事故と同じ扱いで、自賠責保険によって政府保障により損失が補填されるべき、との提言だ。
 ただし、盗難による事故であっても所有者の過失が問われる事例もあるらしい。以下は報告書の抜粋である。

『盗難車による事故の場合であっても、例えば、路上や第三者が自由に立ち入ることが可能な場所に長時間にわたってエンジンキーを差し込んだまま駐車していた等の場合には、第三者による運転についての保有者の客観的容認又は保有者の管理責任違反があったと認められ、保有者が運行供用者責任を負う』

まあ盗難に関しては、それはそうだろう。で、この一文には以下の続きがある。

『この点、ハッキングに関しても、例えば、自動車の保有者等が必要なセキュリティ上の対策を講じておらず、保守点検義務違反が認められる場合には、盗難車による事故の場合にも保有者の運行供用者責任が認められる上記の場合と同様に、保有者の運行供用者責任が認められることになる可能性がある。』

 つまり、セキュリティ対策が不十分であった場合、車にキーを差し込んだまま駐車していたと同じような無防備な状態にしたと解釈され、所有者の管理責任違反が問われる可能性があるということだ。

 

 システムアップデートが遅れて事故ったら所有者責任?

 これは怖い。。。。セキュリティホールが発見され、その対策ソフトの更新が遅れ、そこからハッキングされて事故が起きた場合は、自賠責で保障されない可能性があるということだ。

 PCやスマホのように自動アップデートがかかる仕組みにはなるのだろうが、私みたいな週末ドライバや、電波の届きにくいようなところに長期間いたような場合にはアップデートが遅れ、その隙をつかれてハッキングされて事故が起きた場合には、所有者に賠償責任がいく可能性があるということだ。

 20年以上前にWindowsパソコンが登場し、さらに今ではスマホが爆発的に普及してきているが、今でもそのシステム更新がどれだけ迅速に行われるかはかなり疑問だ。セキュリティホールをついたウィルス攻撃と、その対策とのいたちごっこの状況が自動運転でも起きるかと思うとぞっとする。将来、自動運転技術をより必要とする高齢者に対してシステムアップデートの責任を問えるのだろうか。

 

 自動運転を享受するには高い責任能力が必要そう

 こうした法制度的な議論をみると、一般ドライバが自動運転(レベル3以上のドライバが手放しできるレベル)を享受することにはやはり高い壁を感じずにはいられない。誰だって責任とれないものには手を出したくない。どんなに優れた技術であっても人間社会での責任までを置き換えることは不可能だ。

 やはり物流やタクシー、バスなどの事業者など、高い責任能力をもつ者でなければ自動運転を導入するのは難しいと思う。

 

好きなことで稼ぐことについて思った

 漫然と好きな趣味を継続するか、壁を乗り越えるか

 「好きなことで稼ぐにはどうしたらいいのだろう」と最近思った。

 きっかけは、最近、中学の娘の習い事の一つのバイオリンのレッスンを止めさせたことだ。この年頃の子の定番ではあるが、塾に通うととなり習い事に時間がとれなくなったためだ。娘も納得の上ではあるが、娘曰くはバイオリンが好きであり、できれば止めたくはなかったらしい。だが、どうも自発的にきちんと練習している様子はなく、嫌いではないのかもしれないが、真剣に上達を目指す強い意志を感じられなかった。

 好きなことや興味があるものががたくさんあるのはいいことだと思う。趣味や遊びもは人生を豊かにはしてくれるだろう。大人になればそういったものが仕事以外の人生の潤いにもなる。しかしその対象がスポーツであれゲームであれ芸術であれ、やり始めは楽しくてもいつかは壁に直面する。そしてその壁と真剣に向き合って、辛い努力を重ねて壁を乗り越えるか断念するかの決断の時がくる。

 壁に向き合わずに単に好きだからという理由で漫然とやり過ごすというのも実際はあるだろうが、中学・高校では、そういった漫然なものを多くやるよりは、壁と真剣に向き合ってそれを克服するようなことに時間とエネルギーを集中してほしい。趣味が多いことに越したことはないが、若いころに真剣に取り組んだものが結局、その後の人生において、何かしらの形で糧となることが多いと思う。そういった理由で、最終的には親として娘に引導を渡した形だ。趣味としてのバイオリンであれば、高校や大学、社会人になってからでも再開してくれればよいと思う。

 

好きの基準:暇なときに自発的に行っているか

  こんなことがきっかけで、今、自分が好きなことは何だろうかと思った。ちなみに私は昔から、自分が好きかどうかの自分なりの一つの基準を持っている。それは「暇なときについつい行っていること=好きなこと」である。決して仕事のためとか、何かの義務で行うことでなく、自身の潜在的嗜好から自発的に行うことだ。私の場合、英語学習や、お酒を嗜んだり、最近始めたランニングなどがすぐに思いつく。ちょっと前はネット将棋にハマった。

 技術スキル向上はそれなりにプライベートでも続けてはいるが、好きでやっているのか仕事に役立つからと思ってやっているかというと、どちらかというと後者のように思う。今の仕事が嫌いなわけではないが、仮に今の仕事がなくなったときにこのスキル向上を続けるかどうかというと微妙だ。恐らく続けていない気がする。僕の基準からすると、それは自分の嗜好とは少し違う。

 「今の仕事が楽しいか」と問われてYESと答える人は多いだろう。その中で「その仕事が好き」という人も多いだろう。だけど「その好きなことは仕事を抜きにしても好き」という人はどれだけいるのだろう。例えば優秀なシステムエンジニアでも、必ずしも家に帰って寝る間を惜しんでプログラミングするようなGeekとは限らない。仕事が好きな人といってる人も、それが必ずしも自分の潜在的な嗜好と完全に一致するとは限らないと思う。

 最近、人生100年という言葉をよく耳にするが、私の年代は定年後も稼がなければ老後が苦しそうだ。できれば好きなことで稼げるようになりたいが、当然だが、好きなことと稼ぎに結びつくかどうかは全く別だ。稼ぎに結びつかないことの方が多いだろう。

  まあ年とれば、ある程度自分の趣向はおよそわかっているつもりだ。今の仕事が続けられているうちにいろんなことにチャレンジし、自分が好きかどうかを見極め、好きであればそれで将来、稼ぐにはどうしたらいいかを考えていくしかないだろうと思う。

 ただし娘のバイオリンと同様、真剣に取り組むのであれば、あれもこれもと手を出すのは時間的に難しい。老後までの時間だって有限だからその選択はものすごく重要だろう。

資格に合格して効率と非効率について思った

資格の勉強はつらかった

 私ごとであるが今月、技術士二次試験に無事合格した。ようやく2年間の勉強が実った形だ。公的証明書やら会社の公印やら登録申請のための書類集めに未だ終わっていないが、4月頃には晴れて技術士として名乗れるだろう。

 正直、勉強はつらかった。なにがつらいかというと、資格のための勉強というのが直接的に業務に役立つものではなく、モチベーションの維持がつらかった(つまりやる気が起きなかった)。勉強し始めのころは、これまで関わりない分野の知識や技術者倫理など、技術者としての見識を深める勉強に熱意をもってのぞんだのだが、その量の膨大さと勉強時間の少なさを認識しはじめると、途中からは、「いかに効率よく合格するか」という方向にどうしてもなってしまう。こうなると勉強は苦行となる。

  それでも資格取得という目的に対してそれなりに効率よくストレートで到達できたことはうれしい。

 で、思ったのはそもそも「勉強と効率」って両立するのだろうか?

 

勉強と効率

 ここで思っているのは「勉強と効率」であり「勉強の効率」ではない。後者であれば「短い時間でいかに高い学習効果を上げるか」ということであり、最近は脳科学的観点から、質のよい睡眠をとることで翌日に頭をすっきりさせて勉強にのぞむとか、朝時間を活用するとかいろいろあるだろう。通勤中にタブレットで参考書を読んだり、英語ヒアリングしたりといった隙間時間を活用することも、一日という時間を効率よく活用する術といえよう。

 しかし前者として考えた場合、勉強すること自体が効率とは矛盾するものである。英語のライティング力を鍛えるためには、翻訳ソフトに安易に頼るべきではないだろう。しかし効率を優先し、業務上とにかく速くそれなりの質の英文を仕上げるには、翻訳ソフトを使った方が断然効率では有利だ。いかに効率良く仕上げるかが目的であれば、勉強する以外にも多くの手段があるはずである。

 

勉強と業務があいまい

 勉強は勉強、業務は業務と、くっきり切り分けられていれば特に思うところはない。しかし社会人になるとこれらの切り分けがあいまいになりやすい。つまり業務が個人のスキルアップや勉強も兼ねていることが多い。

 先ほどの英語ライティングでいうと、私は業務上英文書く時もこれを修行の機会と考え、翻訳ソフトは全く使わない。でも効率だけ考えれば絶対に翻訳ソフト使った方が多分速いと思う。最近の翻訳ソフトの性能の向上は目を見張るものがある。

 

 研究開発の現場は特にそうだ。研究開発職では、新たな分野や技術に対する継続的な自己研さんが常に要求される。私の関連分野でも、例えばAIプログラミングは、Python系ライブラリやMatlabなどのプラットフォームが非常に充実していて、今更DeepLearningの誤差逆伝播やらSGDやらを実装するのは非効率この上ない(実は私、仕事でGPU使って実装してたけどそれらを今は全く使うことない。。。)。

  でも勉強という意味では、DeepLearningを深く理解するには実際に実装してみるのが一番だ。DeepLearningに関わらず、こうした指摘は昔からある。私が学生だったころは、「Matlab病」なる言葉もあり、要は信号処理の基本部分はMatlabに頼るな、きっちり理解するために自分で実装しろ、とか言われたものだ。しかし今では自分の研究のためにFFTやら行列演算をスクラッチで実装する研究者などいないだろう。それだけで貴重な研究時間を無駄にしてしまい、とても研究成果に結びつかない。

 

研究開発の効率性

 昨今、研究成果にもスピードUPが要求されてきており、「オープンイノベーション」という言葉を最近よく耳にするように、すべてを自社開発するような時代ではない。自社に欠けている部分を、外部の技術やアイディアを活用して補うことで効率よく価値を生み出すという思想だ。

 しかし、自社に欠けているものをオープンイノベーションによって自社内に育成することは容易ではない。協業先にとっては自社の技術流出になるため、どこまでを技術供与するかについては当然、慎重になるからだ。個人レベルに置き換えると、自分で一から勉強するのではなく、他人と分担してやってしまおうという形に近い。そして他人の担当部分を、自分は全く理解できないのである。

 

非効率を産むために効率がある

 組織にせよ個人にせよ、今の社会では効率が優先されすぎて、非効率な作業を行う時間が減ってしまっているように思えてならない。本来、非効率な時間にこそ、個人の人生や、企業活動にとっての重要なものがあり、そうした非効率な作業の時間を産み出すために作業を効率化するのではないだろうか。

 個人レベルでいえば仕事を効率よく終わらせて定時で帰宅し、自己啓発や趣味や娯楽の充実した非効率的時間を増やすというのがわかり易い例だろう。研究開発でいえば、応用研究で回収した資金を、目先に成果は出にくい基礎研究へ投資するというのがそれに近いだろうか(ちょっと無理やりかも)。いずれにせよ、

 非効率をなくすのではなく、非効率を作るために効率があるのだと思う。

新幹線の台車亀裂問題に検査部門の不遇を思った

 新幹線で初めての重大インシデントとなった台車亀裂問題。川崎重工が供給する台車の部品に設計寸法よりも薄い箇所があったことが判明し、これが亀裂の原因の可能性があると報道されている。それにしてもここのところ、日本の製造業の信頼を揺るがす品質不良問題が多いように思う。

 昨年だけでも日産、神戸製鋼東レ、海外ではVWの排ガス問題などなど。個々の問題の背景や原因は様々だろうが、いずれも共通しているのは、最終製品の品質検査段階で、こうした品質不良(あるいは不正)を防ぎきれていないことだ。品質検査工程で求められる機能を果たせていない。

 

検査部門は不遇

 

 こうした品質不良の背景としては、ハード、ソフトに関わらず製品開発・製造では製品の高機能・多機能化が進む中、市場の競争が激しくなり、現場には工期短縮、コスト削減が要求され続けている。

 このような厳しい要求によって最もしわ寄せがいくのは、多くの場合はその最終工程である品質検査工程だ。製造工程に遅延が生じても、納期を遅らせるのは難しいため、検査工程でなんとか挽回できないか、ということになりやすい。


 本来、品質管理を検査部門の問題だけで考えてはならず、要求仕様策定や設計など上流フェーズから品質検査に対するコスト意識をもったうえで品質管理が遂行されなければならない。しかしこれがうまく回らないと、結局、「品質は落とさず、検査期間を短縮しろ」といった不合理な要求が検査部門にくることになる。

 こうした不合理な要求が来たときの検査部門としての対処としては、
・品質を下げる
・出荷を遅らせる
・機能を削る
などが一般的だろう。

 これらが一切許されず、企業倫理の圧力が過剰に働いてしまうと、検査データ改ざんや無資格者検査といった不正につながりやすくなる。

 特に検査工程は、設計開発や製造工程と違って、検査自体が直接付加価値を生み出すものではないため、コスト削減の対象になりやすい。またエンジニア側の感覚としても、検査部門よりも、モノづくりや技能をより実感できる設計開発や製造部門の方を好むのではないだろうか。正直いって、優秀な逸材は、なかなか検査部門には投入されにくいという実情は否めない。

 思えば検査部門は不遇なのである。

 

労働人口の減少がさらなる品質低下を招く


 しかし言うまでもなく検査技能はモノづくりの現場では欠かせない、熟練を要する技術だ。どれだけの時間でどれだけの検査をこなせるか、どれだけ難しい不良を多く抽出できるか。検査の品質が顧客へ渡る最終製品の品質に直結する。

 70年代ごろは、製造現場でのQCサークルなどが国内で広く普及していた。現場のチームワークにより品質改善を図る活動であり、日本の製造業の強さの源泉でもあった。しかし90年代以降のリストラや海外移転などで、また非正規社員の増加もあって、QCサークルの数は大幅に減り、現場力の低下につながっている。

 

 今後、少子高齢化によりますます労働人口の減少がすすむと、その影響が製造業の品質低下という形で顕在化するように感じる。日本の製造業の信頼性失墜、国際競争力低下につながりかねない。

 

 その解決策として最近は、AIを生産現場に活用するという動きはある。検査では、カメラやセンサーを使った外観検査などに画像認識の活用が進んでいる。とはいっても画像やセンサーデータといった、整形されたデータとしてAIに落とし込めるような検査項目は、検査の全体集合からみればまだまだ少数だろう。そもそもAIに学習させるのは熟練した検査員の判断による教師データだ。熟練検査員がどんどん退職してしまっては、その優れた検査スキルが継承されることなく失われてしまう。コスト削減どころではなく、熟練技術を絶やさないための積極投資が早急に必要なはずだ。

 

 検査部門の不遇な状況を改め、積極的に対策を講じない限り、今後もこうした品質不良の問題が後を絶たないのではないだろうか。